営業と聞くと、バリバリ稼いで華やかなイメージがありますよね。
しかしいざ営業職として働き始めると、現実はとても厳しかった…なんてケースも多く、やむを得ず退職…なんて人も多いのが現状です。
「せっかく新卒で憧れの花形営業職についたのに、こんなに辞めたくなるなんて…」と感じてしまう人も多いのです。
しかしそれは、誰もが一度は通る道。
今回は、漫画家としても活躍をしているえりたさんに、広告代理店での営業職時代のお話を伺いました。
この記事を書いたライター
えりた
漫画家・イラストレーター/元求人広告営業職/現在はSNSにてお仕事コミックエッセイを発信中/
著書『地元で広告代理店の営業女子はじめました』他
営業職に就いた理由
私は元々営業職志望ではなかった。
というよりそもそも、営業の仕事がどういうものなのか、大学生の私にはまったく想像がついていなかった。
子供の頃からテレビCMが好きで、広告に関わる仕事がしたいと思い、大学では広告全般について学んできた。
しかし、広告関係の仕事に就くといってもそこで何をしたいのかは漠然としていた。
そして就職活動の際、地元の広告代理店が営業職のみの新卒採用をしていたので、そこでなら広告に関わる仕事ができるだろうというぼんやりした動機で応募したのだった。
当時地元の広告代理店には約150名の応募があり、そこから5名の新卒が営業職として採用され、そのうちの一人に選んでもらえた。
とはいえ自分に何か突出したものがあったわけではない。
コミュニケーション力が高くなければ、頭の回転もよくない。
入社式のあと、男女含む4名の同期が楽しく談笑しているなか、貼り付いた笑顔のまま話題に入り込む勇気のない私。
こんな私が営業の仕事をうまくやれるのだろうかと、ただただ不安だった。
入社翌日から研修と称して人事や各部署の役職者が会社概要や業務内容について教えてくれた。
ビジネスマナーなどについてはまったく触れられなかった。
新卒採用といえども一から丁寧に教えてくれるわけではないのだと知り、慌てて仕事帰りに書店へ行った。
「ビジネスマナー」と書かれている書籍を手に取り、なんとなく立ち読みしたものの、その膨大な内容にめまいがしてそのまま買わずに帰った。
学生でもなく社会人としての自覚もスキルもない、さらに初任給をもらう前の私はお金もなかった…。
求人情報誌の部署に配属されたものの
その後、私は求人情報誌の部署に配属された。
街中に設置しているフリーペーパー型の求人情報紙を担当する部署だ。
私は最初に「設置店開拓」という仕事が与えられた。
フリーペーパーを設置してくれる店を一件一件、地道に探す仕事だ。
もちろん店の入り方や声のかけ方、入店してからどのように話を進めるかといったマニュアルはない。
今考えれば新入社員に対してとても雑な扱いだったと思う。
しかし、やるしかなかった。
毎日いろんな店に飛び込み、責任者に会い、フリーペーパーを設置させてほしいと頼んだ。
毎日何十軒もの店を回りながら、自分が育ってきた街にはこんなにもいろんな店があるのかとびっくりした。
全国展開している有名店だけでなく個人店もたくさんあった。
コンビニは本社直営店とフランチャイズ店の2種類あることを知ったり、スーパーの裏にある事務所に初めて入ったり…毎日少しずつ新しい経験ができる楽しさがあった。
しかし実際に営業活動はまだしておらず、私は営業としてうまくやれるのだろうかと不安な日々が続いた。
私が設置店開拓をしている間も、他部署にいる同期たちは営業活動を始めていたし、同じ部署の先輩たちは慌ただしく仕事をしていた。
求人情報誌は週刊発行なので毎週校了日(締め切り日)がある。
毎日大量の原稿をさばきながら電話もひっきりなしに鳴っていて、何か聞きたいことがあっても上司や先輩に聞ける雰囲気ではなかった。
私にできることといえば、電話の取り次ぎや原稿の校正作業の手伝い、夜食を配り掃除をするくらいだった。
使えない奴と思われないように必死に仕事を見つけては、その忙しさに溶け込もうとした。
そして私もそのうち先輩たちのように顧客を抱え売上を上げるのだろうとぼんやり考えるものの、やはり具体的なイメージがわかなかった。
飛び込み営業先で教わったこと
入社から3ヶ月後、ようやく一人で営業活動をすることになった。
といっても担当顧客数は0件。
指定されたエリア内の会社や店に飛び込み営業をするという指示だけで、やはりここでもマニュアルや具体的はアドバイスも何もなかった。
私は営業車をよろよろと走らせ、どこに向かうでもなく国道をひたすら走りながら、飛び込める会社や店を探した。
走り始めて1時間経った。
いい加減どこかに飛び込まないと…と思い、その時目に止まった会社の駐車場の隅に車をとめた。
「ここは何の会社だろう?カタカナのおそらくテクノロジー系…?」そんな雰囲気の会社に飛び込んでみた。
「失礼します…」
私はおそるおそる事務所のドアを開けた。
「はい?」事務所の入り口近くにデスクがある女性事務員がこちらに顔を向けた。
「あ、わたくし株式会社○○のえりたと申しまして、うちで発行している求人情報誌のご案内で伺ったのですが…」
冷や汗をかきながら、私は話した。
「弊社は求人募集していません、え、ていうかなんでうちに来たの?」
事務員はそう言うと、真顔で私の顔をじっと見た。
「あ、あの、実はこの地域を1件1件飛び込み営業してこいと上司に言われたもので…」
馬鹿正直に答える私。
「はぁ…あのね、あんたね、そんなやり方していたら日が暮れちゃうよ。飛び込み営業ってそういうことじゃないの。求人募集している会社にアタックしなさいよ。」
そして事務員は私のほうまで近づいてきてこう言った。
「私は元・求人広告営業なの。営業マンなら売上あげる方法をちゃんと考えて行動しなさい。」
そう言って、まずは同業他社の求人情報誌を入手すること、営業をかけてもいい会社を先輩に確認すること、そこに飛び込み営業することを教えてくれた。
「ご丁寧にすみません、ありがとうございます…!」
私がお礼を言うと、事務員はため息まじりにこう言った。
「これだから求人営業なんてみんなすぐ辞めちゃうのよ…。新人育てようとしないで自分の仕事ばかり。ま、そんな先輩たちも自力で這い上がった人たちなんだろうけど。」
飛び込み営業1社目で、私はなぜか求人広告営業のやり方を教わった。
そして同業他社の求人情報誌をコンビニで入手し、よろよろと会社に戻った。
受注できない日々
「求人募集している会社に飛び込み営業をする」
飛び込み営業先で教わった言葉に従い、私は他社の求人誌で求人募集をしている会社へ飛び込み営業をした。
しかし、訪問する先々で「もう人は集まった」「しばらく募集予定はない」と言われ手応えのない日々が続いた。
しかし毎週求人情報誌は発行されてゆく。私は受注ゼロのまま、校了日になると先輩たちの校了作業を手伝った。
「受注も取れない営業の私が、ここにいる意味はなんだろう…」
次第にネガティブな気持ちになり、胃が痛くなってきた。
そんな慌ただしい校了作業のさなか、問い合わせの電話がきた。
「えりたさん、焼肉屋○○さんから電話です。急ぎみたいです。」
と、経理の方に言われ、
「おおっ!えりたもついに受注か!?」
と、周囲は沸き立った。私も少し期待した。
しかし、電話の内容は”遠方にある同系列の焼肉店にフリーペーパーを設置したいからすぐに店に行ってほしい”という内容だった。
落胆する私を気遣うように上司は
「その店は少し遠方にあるから今日のうちに設置に行ってきなさい。校了作業はうちらでどうにかなるから。」
と言った。
しかし未熟な私に上司の気遣いは伝わらず、今の私は求人情報誌の部署にいてもいなくてもいい存在なのだと言われたようでショックだった。
夕方、私はフリーペーパーを設置するための大型ラックを営業車に積み込み、遠方にある焼肉店に向かった。
高速道路に乗って1時間ほどの場所だ。
胃の痛みだけでなくお腹まで痛くなってきた。
痛みと悔しさで涙も出てきた。
さらに雨がざんざんと降りはじめ、雷がドカンドカンと落ちてきた。
最悪の状況のなか高速道路を走らせながら「絶対受注してやる!」と誓った。
SNSがあれば少しは救いがあったかも
しかしその後も相変わらずだった。
飛び込めど飛び込めど受注はできなかった。
自分がだめな営業なのはわかっているが、具体的に何がだめなのかわからなかった。
とはいえ先輩に相談することもしなかった。
忙しそうな先輩に迷惑をかけたくなかったからだ。
毎日孤独で、少しでも油断すると涙が出そうで、空ばかり見ながら街中を歩いた。
その頃は今みたいにSNSなどなかった。
悩みを吐き出して誰かにいいねボタンを押されることも、同じ思いの人と気持ちを共有することもなかった。
唯一あったのは携帯日記サイトくらいで、私はそこに辛い気持ちをガラケーでぽちぽちと書き込んでいた。
もちろんレスポンスはなく、そこから何か答えが導かれることもなかった。
もしあの頃SNSがあったなら、私は真っ先に「新卒 営業 辛い」と検索していただろう。
そして同じように辛い思いをしている人を見つけ、私だけじゃないんだと励まされたり、辛いときはこういうことをしてみようなんて中堅営業職のアドバイスを糧にしただろう。
しかしそんなツールのない時代。私は途方にくれた。
転機となったファーストフード店
そんなあるとき、私はとあるファーストフード店に飛び込んだ。
店長は日中おらず、毎日深夜に出勤しているとスタッフが教えてくれた。
私も仕事が終わるのが深夜だったので(今じゃありえないくらい遅くまで仕事する会社だった)それなら仕事帰りに立ち寄ろうと思った。
深夜再びファーストフード店に行くと店長がいた。
事情を説明するととても驚いていたがお互い深夜まで大変だねと労ってくれた。
労ってくれたのはこの店長が初めてだったのでとても嬉しかった。
店長から話を聞くと、24時間営業だけど深夜スタッフが足りず、店長が深夜シフトに入らざるを得ないという状況だった。
しかも日中は店長会議やスタッフ管理業務もあるとのこと。
私は疲弊した店長を見て「この店長を求人情報誌で助けたい」と素直に思った。
しかしそのファーストフード店はチェーン店なので、求人広告を出す決裁権がなかった。
本社で決めていることだからと断られ続けた。しかし私はあきらめなかった。何度も深夜に訪問し、地元の求人情報誌だからこそお役に立てると話をした。
あるとき熱意が伝わったのか、根負けしたのか、店長が本社に求人広告を出す稟議を上げてくれた。
さらにその稟議が通り、求人広告を受注することができた。初めて自分の力で得た受注。それは本当に本当に嬉しかった。
しかし私はすぐ不安になった。
「せっかく受注できたけど、これで反響が全然なかったらどうしよう…。店長にも迷惑をかけてしまう…。」
こればかりは神頼みするしかなかった。
上司に言われた一言
そして迎えた校了日。
周囲の先輩が何十件もの原稿を確認しているなか、私はたった一つのファーストフード店の求人広告原稿を見つめていた。
何度も内容を確認し、表現は的確か、写真はこれで良いのか何度も推考した。
その日の校了日は最後の作業まで残ることになった。受注のない私はいつも途中で先に帰っていた。
それがいつも気まずかったので、最後まで残れる嬉しさがあった。
校了日はたくさんの企業の求人広告を見やすくきれいに配置したり、検版作業といって印刷する直前の原稿に間違いがないかチェックをする。
会議室の大きなテーブルに何十ページもの印刷された紙面を並べ、みんなで1ページずつチェックを行なった。黙々と確認作業が行われるなか、一人の上司(主任)が言った。
「えりた、どうだ。売上があるのって楽しいだろ。」
楽しい、という言葉に正直びっくりした。
しかし考えてみれば、受注するまでは本当につらくて苦しくて、なんでこんな思いをしてまで営業しないといけないのだと思っていたが、自力で受注することは嬉しくて楽しくて高揚感に包まれるものだった。
「そうですね」
私は照れながら答えた。職場で笑ったのは久しぶりだった。
営業、それは誰かの役に立つ仕事
ファーストフード店の求人広告が求人情報誌に掲載されて3日後、店長から電話がかかってきた。
3日で25件もの問い合わせがあり、こんなにたくさんの応募が来たのは初めてだと喜んでいた。
ちょうど夏休みの時期だったので学生の応募が多く、深夜スタッフの応募も多いと聞き、私は心の底からほっとした。
私は営業になって初めて「役に立てた」と感じることができた。
それまでは受注を取ることに必死で、その先がまったく見えていなかった。
自社商品を通してお客様のお役に立ち、求職者のお役に立つ、それが求人広告営業の仕事なのだと実感した。
その後、ファーストフード店の店長が他店舗も紹介してくれ、それなら複数店舗で合同募集をしようと大きい広告枠で掲載することになったり、フリーペーパーを設置してくれた遠方の焼肉店から求人広告を出したいと問い合わせが来たりした。
これまで一方的だった営業活動にレスポンスが返ってくるようになったのだ。
必要とされることは嬉しいし、そのためには自分から行動しないと結果は生まれない。
そう気づいた私はまるで矢印の記号『→』のように、前へ前へと加速していった。
まずは行動しよう、そこから得たものを糧にしてさらに前へ進もう、と。
何度も辞めたいと思った営業の仕事。
しかし自ら一歩踏み出すことで、私の知らないワクワクする世界が広がっているかもしれない。
だからもう少し、あと少し、前に進んでみようと思った。